雪国 (新潮文庫 (か-1-1))のレビュー
島村が関与しない駒子の悲しみ
先ず感じるのは本書が持つ映像的感覚である。風景描写や場面展開などはそのままでシナリオになりそうだ。同様に心理描写が島村を除いて全くないのも、映画は人物の心理を行動で描くものだと思えば納得できる。読者を悩ます一つに葉子の曖昧な存在があるが、映画的に観れば、葉子が駒子の内面を示していることは一目瞭然である。分身を別人格で示すことは映画の常套手段であるからだ。実際語り手も冒頭から鏡になった客車の窓に映る葉子を繰り返し述べて、彼女が虚像であることを強調している。
さて島村は「憂鬱症」に罹っている。これは当時近代的知識人であることの一つのポーズだが、こう言っては身もフタもないので、社会学的に分析すれば、物語の背景である昭和10年代の軍国ナショナリズム高揚に背を向けて、親の遺産で食いながら観たこともない西欧舞踊を評論している島村が、自分を役立たずで「無為徒食」な人間と感じるのはうなずけることである。都会を逃れてきた山中の温泉宿で、島村は自由に動き回る駒子と出会い、その圧倒的な存在感に促されてしばしの間自我を取り戻す。
だが駒子は決して「自由」ではない。幼い頃酌婦に売られ、身請けされ、踊りの師匠を頼ってこの温泉街にきた今も、港町に「旦那」がいる。踊りの師匠が素人娘ではない駒子と息子の行男との結婚を拒んだとしてもおかしくないだろう。駒子に出来ることは、年期芸者になった前借金で、愛する幼なじみの入院費を肩代りすることくらいしかない。行男に最後まで付き添って看病し、駒子と島村の情事を冷たく見つめる葉子は、駒子の願望の化身である。
島村は駒子のなかに“玄人”を観たくない。だから語りはしきりに駒子の「清潔」さを強調するが、島村は田舎娘と交渉している訳ではない。花柳界の制度として駒子が旅館にいる時間は「線香」で計られ料金に加算されているのを承知しているのだ。駒子は島村の旅館で「見えん、見えん」を繰り返す。目が悪くなったのではなく、「僕には何もしてやれないんだよ」と繰り返すだけの島村との行く末が見えないという暗示である。島村には東京に妻子もおり、こんな時勢のなかでも「豪華本」を自費出版し、まだ世間に認められたいと思う虚栄心もあり、「国境の長いトンネルが」の両側に二つの世界を共存させている。
駒子は年季明けまでは東京に行くことができないが、分身の葉子は「私を東京に連れて行ってください」と駒子の本音をいう。駒子は葉子を指して「そのうち気ちがいになる」と言うが、気が狂いそうなのは駒子なのである。
島村が帰ろうと思っている夜、繭蔵が火事になり、そこで「映画」を観ていた葉子が二階から落ちる。駒子は走り寄って彼女を抱きかかえ現場から引っ張り出そうとする。島村は「駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように」と感じるがそれは少し正しくない。駒子は自分自身を抱いているのである。
駒子の変貌は山から降りた島村が駒子と出会った春からの199日の間にあった。行男との結婚をあきらめ、芸者になって行男の入院費を支払い、神経を患って二ヶ月休み、浜松男のしつこい求婚を逃れ、島村との妊娠を疑い、死を待つ行男をおなじ住まいに迎入れる。その間島村は赤の他人だった。それを想う時、駒子の孤独の悲しみが読者の胸に突き刺さる。短編といえども、ノーベル賞作家の書く小説は矢張りただものではない。
さて島村は「憂鬱症」に罹っている。これは当時近代的知識人であることの一つのポーズだが、こう言っては身もフタもないので、社会学的に分析すれば、物語の背景である昭和10年代の軍国ナショナリズム高揚に背を向けて、親の遺産で食いながら観たこともない西欧舞踊を評論している島村が、自分を役立たずで「無為徒食」な人間と感じるのはうなずけることである。都会を逃れてきた山中の温泉宿で、島村は自由に動き回る駒子と出会い、その圧倒的な存在感に促されてしばしの間自我を取り戻す。
だが駒子は決して「自由」ではない。幼い頃酌婦に売られ、身請けされ、踊りの師匠を頼ってこの温泉街にきた今も、港町に「旦那」がいる。踊りの師匠が素人娘ではない駒子と息子の行男との結婚を拒んだとしてもおかしくないだろう。駒子に出来ることは、年期芸者になった前借金で、愛する幼なじみの入院費を肩代りすることくらいしかない。行男に最後まで付き添って看病し、駒子と島村の情事を冷たく見つめる葉子は、駒子の願望の化身である。
島村は駒子のなかに“玄人”を観たくない。だから語りはしきりに駒子の「清潔」さを強調するが、島村は田舎娘と交渉している訳ではない。花柳界の制度として駒子が旅館にいる時間は「線香」で計られ料金に加算されているのを承知しているのだ。駒子は島村の旅館で「見えん、見えん」を繰り返す。目が悪くなったのではなく、「僕には何もしてやれないんだよ」と繰り返すだけの島村との行く末が見えないという暗示である。島村には東京に妻子もおり、こんな時勢のなかでも「豪華本」を自費出版し、まだ世間に認められたいと思う虚栄心もあり、「国境の長いトンネルが」の両側に二つの世界を共存させている。
駒子は年季明けまでは東京に行くことができないが、分身の葉子は「私を東京に連れて行ってください」と駒子の本音をいう。駒子は葉子を指して「そのうち気ちがいになる」と言うが、気が狂いそうなのは駒子なのである。
島村が帰ろうと思っている夜、繭蔵が火事になり、そこで「映画」を観ていた葉子が二階から落ちる。駒子は走り寄って彼女を抱きかかえ現場から引っ張り出そうとする。島村は「駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように」と感じるがそれは少し正しくない。駒子は自分自身を抱いているのである。
駒子の変貌は山から降りた島村が駒子と出会った春からの199日の間にあった。行男との結婚をあきらめ、芸者になって行男の入院費を支払い、神経を患って二ヶ月休み、浜松男のしつこい求婚を逃れ、島村との妊娠を疑い、死を待つ行男をおなじ住まいに迎入れる。その間島村は赤の他人だった。それを想う時、駒子の孤独の悲しみが読者の胸に突き刺さる。短編といえども、ノーベル賞作家の書く小説は矢張りただものではない。
美的
ノーベル賞作家 川端康成の作品です。さすがに繊細で美しい文章だと思いました。日本的な美があると思いました。初め退屈していたのですが、読み進めるにつれ、その世界観に魅了されていきました。しかし、十分その味わいを感じ取れていなような気がして、もう一度読んでみたいと思っています。ななめ読みするような本ではなくて、しっかりと読む本だと思っています。何回か読むと本当の魅力がわかる本のような気がしました。また、川端康成という人の作品を読んでみたくなりました。巻末には、かなり詳しい作者の年表が載せられていて、作品を味わう時にかなり参考になると思います。作家の名前は、勿論有名で、初めて作品を読んでみました。最初は、古くて、あまり期待できないのかなと思いましたが、さすがの作品でした。
雪国は
この作品の中の執拗なまでの美に関する描写、余りに感覚的な描写は、共感の難しい事が多い。
しかし、特に女達の言動の描写に関しては、非常に生々しく、壮絶でさえあり、只今の人々でも何か深い印象を残される人が多いのではないか。自分はところどころの台詞の響きに、尋常でないものを感じた。
しかし、特に女達の言動の描写に関しては、非常に生々しく、壮絶でさえあり、只今の人々でも何か深い印象を残される人が多いのではないか。自分はところどころの台詞の響きに、尋常でないものを感じた。
「美」の瞬間を言葉で掴まえた物語。
学生の頃読んだ記憶がありますが、改めて読み直してみて、学生では到底手に負えない作品であったことが理解できました。冒頭の「国境の長いトンネルを・・・」が余りに有名なので誰もが若い頃に一度は手に取る作品なのでしょうけれども、「美」「エロチシズム」という感覚的、心理的なものを言葉で掴まえた難解な作品だと思います。壮年になってもう一度読まれてはいかがでしょう。正直、何度繰り返しても理解できない部分もありました。それは多分、自分が生きている間ずっと捜し求める人生上の課題になるような気がします。川端文学の独特の省略と比喩によって読む側も神経を研ぎ澄ましながら読み進むことを求められているように感じます。ぐさりと突き刺さるような形で物語が終わりを告げたとき、その余韻は残雪のようにずっと消え去ることがありません。日本文学の頂点にある一冊であることは間違いのないところでしょう。こういう作品を読み終えた時には、伊藤整氏の解説は助けになります。
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東北の田舎に行くと、今もこの著作の雰囲気そのままの寒々とした山間部が広がっています。
そこに詩的な情緒を見出し、文学的に結実させた川端康成の筆力は見事です。
しかしながら、その東北の田舎の生活の中で川端が見出した情緒を感じるには、現代は忙しすぎ、情報過多にすぎるのです。
俳句や短歌を思わせる見事に絞られた文章は、ひとつひとつの語句が明示したり暗示したりする山の風景よりも、都市部以上に閉塞感に行き詰まってしまった山間部の貧しさと失望をあらわしているように思えて、読むのが苦痛でなりませんでした。
ヨーロッパでも南米でも中東でも中央アジアでもどこでもいいから、どこか別の国での話なら、詩的表現の鮮やかな傑作と手放しで喜べたのかもしれません。
あるいは、昭和の終わりに回顧趣味の一環として読めばよかったのかもしれません。
文学における価値というものを考えさせられる読書となりました。
本レビューを不快に思われた方には、私と同じように感じるかどうか、ご自身で読んでみていただければと思います。